宮台真司と竹熊健太郎が語る新世紀エヴァンゲリオンPARTⅡ|人類補完計画とは何だったのか?

2007年8月、ヱヴァンゲリヲン新劇場版序の公開に合わせて、文化系トークラジオLifeで社会学者の宮台真司さん、編集家の竹熊健太郎さんが対談。

1995年に放送された新世紀エヴァンゲリオン テレビシリーズと劇場版を振り返りました。「ヱヴァンゲリヲン新劇場版公開記念 深夜の緊急対談:破」の43分の内容を文字起こししました。

出演:宮台真司(社会学者)、竹熊健太郎(編集家)、新井麻希(TBSアナウンサー)

ラジオ音声はこちら:https://life.www.tbsradio.jp/2007/09/post_28.html

宮台真司と竹熊健太郎が語る新世紀エヴァンゲリオンPART1|TVシリーズ最終話の終着点+なぜエヴァはヒットしたのか?

宮台真司と竹熊健太郎が語る新世紀エヴァンゲリオンPARTⅡ|人類補完計画とは何だったのか?

エヴァから受けた影響について当時のファンにインタビュー

(男性ファン①)そうっすねぇ。やっぱエヴァに出会って、色々作品を見る上で深く考えるようにはなりましたよね。

(インタビュアー)どんなところですか?

(男性ファン①)深読みしてしまうというか。何気ないシーンとかセリフとかでも何か深い意味があるんじゃないかなと思うようになっちゃいました。より深くガンダムとか楽しめるようになったかな。自分なりに咀嚼して面白がるということをエヴァで教えられた。

(女性ファン①)はい、見てました。リアルタイムで見てました。24歳です、はい。なんか12年経ってみて、なんかこう、無くしたものを見つけにみたいな。ちょっと臭いですけど。なんかちょっと距離を感じるので。そういうのを再確認するために見にきました。

(男性ファン②)まぁ、最初見た頃は中学生だったので。どんどん成長にするにつれて、大人になっていく上では共感できない部分も出てきますけれど。

(インタビュアー)どんなところですか?

(男性ファン②)社会人になってやっぱり責任の部分で、ガキの部分をやっぱり追い払うところがあって。だから、そこをやっぱり共感できなくなる部分もあるんですけど。でも、やっぱりどうしてもなんか思い入れがあって見ようかなと。

(インタビュアー)12年間でご自身に何か変わりはありましたか?

(男性ファン③)やっぱり、精神年齢は変わらないけど自分の歳は増えていく。それだけです。

(MC)ということで、エヴァから受けた影響について、昨日の公開初日、新宿シネマ東急で徹夜で並んでいた方々に聞いた様子だったんですけども。さぁ、改めまして、今日は編集課の竹熊健太郎さんと社会学者の宮台真司さんとでヱヴァンゲリヲン新劇場版公開記念 深夜の緊急対談と題してお送りしていますが。

続きましては、序破急の破と題しましてエヴァ以降のことについてお話をして頂きます。

人類補完計画とは何だったのか?『地球幼年期の終わり』がモチーフになっている

(宮台真司)やっぱりキーワードはね、人類補完計画ってなんだったんだろうか?っていうことで、それをめぐる謎本もいくつか出たし。インターネットでも大変議論になりました。

その人類補完計画をめぐって例えば、ゼーレと碇ゲンドウの対立が存在するし。それとはまた別の評価を他の登場人物たち、例えばミサトあるいはシンジ、加持さんがやっているという構造になってるんですよね。

宗教的な救済のバリエーションも、先ほど冒頭に申し上げたことも絡んでくるんですよ。ようはね、あとでまた議論を深めていくけど、簡単に言うと補完計画っていうのは個人バラバラで孤独を抱えて個人の悩みを誰も共有できないし、なかなかわかり合えなくて、つらい社会生活を送っている状況。

これはおそらく何かの罰であるか、あるいは何かの報いであるから、それを例えば贖罪をするとかですね、ある手続きでハードルをクリアすれば不完全な状況を脱することができて、みんなもっと孤独ではない、個々バラバラでないような何かに至れるんではないか?というようなイメージのモノなんです。

これはSFの中では竹熊さんがよくご存知の通り、アーサーCクラークの『幼年期の終わり』

(竹熊健太郎)幼年期の終わり!

(宮台真司)『地球幼年期の終わり』とも訳されますけど、『Childhood’s End』とも言うんですけども。それで最初に明示的に描かれたモチーフなんですね。確かこれは51、52年の作品だけども、当時は『地球幼年期の終わり』は共産主義思想の体現だって事でアメリカでは物凄い批判をされたわけ。

(竹熊健太郎)新人類が次々と生まれ始めて、それはね、全部心が繋がってるんですよ。新人類の子供たちが。だから個という概念がなくなってくるんだ。全体で一個の人類になってて、全部テレパシーで心がつながりあってる新人類が大量に生まれてっていう話なんです。

(MC)へぇー

(竹熊健太郎)それはエヴァの人類補完計画そのものですよね。

(宮台真司)そうです

(宮台真司)ようは人類が一つの主体になる。

(竹熊健太郎)個人がなくなっちゃう。

(宮台真司)同じでしょ、モチーフが。しかも地球幼年期の終わりはね、前半の3分の2はニュータイプって話が全然出てこなくて。宇宙からオーバーロードっていうね。物凄い高い文明を持った宇宙人がやってきて、地球の不完全なシステムやテクノロジーをどんどん補完して人類をより高度な文明に高めてくれるわけ。

後半しばらく経って突然これは、しかしすべてチャラにするために行われてるんだって事が明らかになって。こうやって文明を高めたところで、簡単に言えば飽和した状態になって、飽和した状態になるとニュータイプが生まれてくる。

そしたら、ニュータイプに地球や世界を全て乗っ取らせて、その高い文明を築いた宇宙人、オーバーロードっていうんですど。オーバーロードも人類も含めて全部潰すと。こういう話なんですよね。

まずエヴァンゲリオンをある程度見て、人類補完計画の実態がだんだん見てるとわかってくるんです。特に映画になればハッキリするんだけども、これは『地球幼年期の終わり』の影響を大変に受けているよね。

(竹熊健太郎)受けてますね。

エヴァの物語構造は救済感の対立を主題にしている

(宮台真司)それだけではなくて、『地球幼年期の終わり』の救済の発想は宗教の中でいくつかのバリエーションがあるんだけども、ある種の宗教が考える救済イメージのプロトタイプ、つまり原型なんですよね。例えば、アーサーCクラークの場合は共産主義思想だっていうふうな、簡単に言えば貧しい批判だったんだけど、エヴァンゲリオンはある程度反復はしてるんだけど、もう少し高度な話。

例えば、人類が一つの主体になるっていう、その成り方についてもいくつかのパターンがあるし、そもそも一つの主体になることが良いのかどうか、それを救済だって考えるのは間違いなんじゃないか?っていうような。

これは最終的に碇シンジが取る立場なんだけど、そういう立場もあるしってことで、実は結局、映画版まで含めて見るとね、映画版ってのはテレビ版の不完全だった25、26話。映画版って申し上げているのは97年の段階だよ。

テレビの補完なんですけど、それを含めて最後まで見ると結局、救済感をめぐる対立を主題にしてるんだなっていう事がわかってくるわけね。それをめぐって沢山の謎本が出てくることなる。

だから、ユダヤ教の聖典であるキャノンであるところの旧約聖書とその外伝があるんですが、繰り返し繰り返し言及するわけね。一つだけ伏線で申し上げておくと大変大事な概念、『生命の木』って概念が出てくるよね。対立概念は『知恵の実』

知恵の実と生命の木っていう対立がある。

僕たちは人類は楽園に暮らしていたところが、アダムがルシファーの化身であるヘビにそそのかされてリンゴを食っちゃったところから、知恵がつくわけ。つまり、リンゴが知恵の実なんですけども。知恵がついちゃった結果、楽園から追い出されるっていう話になってるんだけど。実際には旧約聖書の創世記を読めばわかるんだけど、知恵の実を食ったからじゃなくて、知恵の身を食った後、アダムが生命の木を手に入れてしまう可能性があると。

そうすると、知恵の実と生命の木が合体すると全能者になっちゃうんですよね。全能者って神のことだよね?絶対神のこと。絶対神はヤーべって読み方があったりするんだけど、本当は名前がない絶対神なんですよね。

絶対神なのに、アダムが知恵の身と生命の木を手に入れてしまえば、アダムも絶対者になっちゃうわけ。そうしたら絶対者じゃなくなっちゃうよね。だから、これは絶対に禁じなきゃいけないという事で神様が、全能神が楽園からアダムを追い出すっていう。そういうエピソードがある。

実は人間は知恵の身を食った。で、追い出されたでしょ。

それとは対照的に使徒ってのはなんなのか?っていうことが絡んでくるんだけど、旧約聖書の創世記には知恵の身を食った人間が生命の木にアクセスできないように神様が魔物を配置するんですよ。魔物っていうか番人だよね。それを『使徒』っていうんです。エンジェルのことなんですけどね。簡単に言えば、それがエヴァンゲリオンの『使徒』なんですよ。

わかります?

簡単に言うと、人類がテクノロジーをどんどん発達させてきた結果、単に知恵が付いただけじゃなくて、生命をいじろうとしている。例えばね、遺伝子を操作してテロメアっていう部分を変えれば、例えば永遠に生きられるかもしれないっというようなことを操作しようとしている。そういう段階だった。90年代半ばの段階では、バイオテクノロジーに手をつけるようになっている。

おそらくその辺りにインスパイアされたのかもしれませんけどね。ようは、そろそろ生命の木に手を出そうとしている人類を抑止する、あるいは追い払うために使徒が放たれてくる。これは旧約聖書のモチーフをそのまま反復。ジェネシスというか創世記のモチーフの反復であるわけですよね。

なぁんていうことが、一つのエピソードなんだけど(笑)

数々の宗教的エピソードが反映している中の一部に過ぎないんだけど、そういうことを知ってると結構面白いですよね。さっきおっしゃってた東浩紀くんがデータベース的な消費っていう事を言っててね。物語の小説を単体で楽しむのではなくて読者が、見る人間が頭にインスパイアされたり、頭の中で何かが繋がったりして例えば、映画や小説が提供している情報量よりもはるかに大きな情報を享受できるようになるようなことがあると言ってるんだけど。

そういうモノの典型だよね(笑)

(竹熊健太郎)そういう情報の配置の仕方が絶妙にうまかったと言える。劇場版の夏エヴァで最後、エヴァンゲリオンに羽が生えるじゃない?あれが12枚。ルシファー、悪魔の。深読みをすればいくらでもできるように作られてるんですよ。

ゼーレと碇ゲンドウの救済感を対立させ、最終的には碇シンジが両方とも否定した

(宮台真司)色んな事が張り込んでるだけどね、最も重要な対立はさっき言ったように合一するかそうじゃないか。そこで言うと『合一は良くないんだ』っていう考えは碇シンジが最終的に取る立場なのね。

合一する場合にどういう合一、つまり人類が一つの主体になることが良いのかについて、ゼーレっていう謎の組織とその下部組織であるはずのネルフの碇ゲンドウが対立しているっていう構図になってるのね。

まず例えばね、キリスト教ってのがあるよね。これはユダヤ教から分かれてきた宗教なんだけど、キリスト教は今回どこにハマるのか?っていうと、ユダヤ教は建前だけど、『合一は許さない』ってわけであって。全能者っていうのは一つしかいない。

人間は全能者とせいぜい契約をして、怒られないようにしなきゃいけないと言う話で終わってるわけだけども。カバラとかなるとちょっと違ってくるんだけど。少し横に置いとくよ。

キリスト教はそうではなくて、イエスが十字架に、十字架っていうのは生命の木のメタファーなんだけど、まぁいいや。十字架に磔になることによって、人類が負っている原罪、つまり知恵の実を食った事による原罪を贖っているんだよね。実はもうそこの部分では神様に許されている。

そうすると、キリスト教徒にとって最終的な関心は、最後の審判のときに永遠の生命が得られるかどうか。つまり、生命の木が手に入るかどうかと同じなんだけど。ユダヤ教では絶対、生命の木を手に入れちゃいけないって話になってるんだけど。キリスト教の場合には、『イエスによる贖罪』っていうモチーフが入っているせいで、みんなが死んだ後に永遠の生命を得て、簡単に言えば神の国に入って神と合一するっていうね。そういう発想になってるわけ。

その意味で言うと、ユダヤ教とキリスト教的なモノの対立がそこにあるとも言えるし。あるいはユダヤ教とユダヤの外伝にも色々な対立があるんだけど。

そうした細かい知識は別の問題としてね。

例えば、ゼーレっていう組織が人類は罪を負ってる存在だから罪を濯ぐ、つまり禊をする。みんなで贖罪をすることによって簡単に言えば、許してもらって今ある不完全な状態から元に戻りましょうっていう発想をしているわけね。

それに対して、碇ゲンドウっていうのは『そうではない』と。知恵の実を食って不完全に存在になってバラバラになったのを元に戻すというようなやり方ではなくて、そもそもルシファーが、ルシファーってのは光の存在って意味なのね。ギリシャではプロメテウスって言われてる存在で、元々悪い人って意味じゃないんですよ。日本では悪魔って訳されてるけどね。

簡単に言えば、元々は楽園にいた存在というのは知恵もないし、永遠の生命もない。簡単に言えば、普通に生きてる動物ってことだよね。知恵の実を食って人間になる。生命の木を手に入れて使徒になる構造が元々あるわけだけども、碇ゲンドウが考えてる救済っていうのはルシファーが呼びかけたように、まず知恵の実を手に入れたでしょ。そのあと、『俺たちはルシファーの呼びかけに応じて生命の木も手に入れれば我々が完全な存在、我々が神になれるんだ』と。

神に許してもらうための人類補完計画がゼーレなんですけど、我々が神になるための人類補完計画が碇ゲンドウっていう対立なのね。おそらく、それは設定ではハッキリ書かれてるんでしょう。それに対して碇シンジは「どっちも嫌だ!そんなのものは!」というふうにハネつける構成になっているんですね。

それをストーリーにブレイクダウンすることに結局、97年段階の映画を通じても実はあまり成功していない(笑)

(竹熊健太郎)今の話なんですけど、プロットレベルの解説としては100点満点だと思うんですけど。

監督のオタク批判

(竹熊健太郎)もう一個、別のメタな要素が実はエヴァンゲリオンって入ってきて。例えば、人類補完計画がなんのメタファーになってるかというと例えば、庵野さんの当時の生きていた世界、アニメ界、あるいはアニメファンを見てると補完されたがってるんですよ。アニメに。つまり、オタクっていうことでみんなで一つになりたいとかね。それに対するなんか呪詛というかね。

(宮台真司)そうだねぇ

(竹熊健太郎)ものすごい罵倒を浴びせたんですよ。これは作品の外で、庵野さんが。俺とのインタビューでも出てきたし。

(宮台真司)夏エヴァでもありましたね

(竹熊健太郎)夏エヴァでもあった!春エヴァでの客席を映して、それを夏エヴァの1カットに挿入してるんすよ。

(宮台真司)www

(竹熊健太郎)そこに字幕かなんかで『気持ちいいの?』とかね。ちょっと正確には忘れましたけどね。『これで満足?』みたいな。

(宮台真司)そうそう

(竹熊健太郎)つまり、そこが実はエヴァンゲリオンっていう作品が物議をかもした最大の部分なんですよ。

つまり、ファンであるところのオタクの皆さんに『お前らいつまで経ってもアニメばっかり見ていてね、メカだ、美少女だと。そんなことで気持ち良くなってね、何やってるんだ。もっと目を覚ませ』みたいなことをやったんですよ。

ところが庵野秀明という人自体がオタクの中のオタクみたいな人なんですよ。ずっとアニメ仙人って言われてましたから。当時エヴァ作ってる最中の庵野さんによく会ったんですけど、ガイナックス行って。ガイナックス住んでんですよ、庵野さん。当時はね。

今は結婚されてちゃんと家に住んでますけど。もうね、20年近くアニメスタジオに寝泊まりしてたんですよ。まぁ、日本三大オタクの一人には数えられるぐらいに。

(MC)wwwあとは誰ですかw?

(竹熊健太郎)いや、あとは色々数え方がありますけどねww

庵野さんが批判したような、いつまで経ってもね、アニメばっかりみやがってみたいなね。アニメ作っててよ、そういうこと言うってのはさ。そこで生になんか出ちゃってるんだよね。人類補完計画ってさ、ある意味でさ、徹夜してエヴァ見るような人たちに向けての批判だったりもするわけですよ。

だから、そこ捻じ曲がってるんですよ。あの作品の変なところは。ただ、それを含めてネットとかで物凄い騒ぎになったんですよ。

(宮台真司)そうだねぇ。つまり『お前に言われたくない』って事なんですよw

(竹熊健太郎)お前が言うなぁwwうん、お前が言うなよっていうさぁww

だってアニメ作ってるんだから、もっとね、ちゃんと作れと。スケジュール守って。

(MC)はははw

(竹熊健太郎)ところが庵野さんとしては『人生賭けて俺はコレ作ってるんだ』と。『スケジュールなんか、この際しょうがない』と。そういうことやっちゃったんで。

でも『プロなんだからちゃんと作れよ』と、まぁ真っ当な批判だよね。真っ当な批判なんだけど、プロっていうところで作ってないんですよ、あの時点では。それが異常な作品になった理由だと僕は思ってるんですけど。

オタク批判の文脈にも繋がる哲学と宗教の歴史

(MC)ちょっとここですね。ここでメールが届いているので、ご紹介したいと思いますけど、ラジオネーム”キリンビールさん”。30手前の男性からです。

『宮台さん、庵野監督は春夏のエヴァで「オタクどもよ書を捨てよ町へ出よ」的な表現はしたと思うのですが、この10年で自体は後退していると思います。秋葉原なんて、以前より普通の人が行きにくい環境になってますよ。

エヴァを見た僕はそっちの人とあっちの人の距離がなくなると期待していたのですが、今ではそっちの人はよりソッチへ。あっちの人はそっちの人を見ないふりという気がします。』という現象になったということですが。

(宮台真司)今のメールとね、先ほど僕が申し上げた神学の話と、竹熊さんがご紹介頂いた庵野さんの周辺事情の話と全部結びつくところがあるのね。先ほど僕が申し上げたことは簡単に言えばね、例えばユダヤ教は絶対神に許してもらうためにはどうすればいいかという思想。キリスト教ってのはある程度許してもらったので、そのあとは神の国に入って、いかに神と合一するかという思想なのね。

実はこの二つの思想に対して、絶対的なアンチを唱える思想っていうのが、初期ギリシャ思想って言われるモノで。勿論そのギリシャ思想のときには、キリスト教はまだないけれど、絶対神との関係で自分がどういう位置を取れば救われるのかっていう問題設定を徹底否定してるのね。

それはソクラテスが、プラトンが紹介しているソクラテスの原稿録の中で徹底批判が繰り返し行われていて。ソクラテスは特にファイディアスという書物の中では『エジプト的なモノだ』と。

つまり、超越神との間でどういう行動をすれば、取り決めをすれば、あるいは取引をすれば、自分はちゃんとできるだろうかという発想は全てエジプト的なモノで、これは良くないと。

なぜ良くないからというと依存的だからだと。簡単に言えば自立の気概がない、あるいは自立の能力がないから、超越神みたいなモノを持ち出して、様々な問題を超越神に預けて、あるいは帰属してなんとかしようとしていると。これは『下らない』というふうに言った。

このソクラテスの思想、あるいは初期ギリシャの思想というのは勿論ニーチェのキリスト教批判とかね、あるいはハイデガーの形状学批判と言われるモノに、それに繋がってるモノが東浩紀くんだったりするんだけども。

全部繋がってくる流れなのね。

そういう意味で言えば、庵野さんが碇シンジ君に仮託してね、『もう、超越神との兼ね合いでのサルベージとかっていうような人類補完計画的なモノはもうウンザリだよ』というふうにして否定するという事と『オタク的な情報やデータベースに依存して、一喜一憂している下らない観客ども!』みたいな発想とは実は繋がるの(笑)

繋がるんですよww

(MC)えぇぇ!

(竹熊健太郎)そういう作品のテーマとさ、庵野さんの個人的なテーマとか、個人史とか周りの環境とかが変な具合でシンクロしているのがね。エヴァンゲリオンの作品のね、実はね、変なところなんですよ、一番。

だから庵野さんに最初会ったときも「僕は死にたい」とか言ってましたけど。まぁ、周りの人に言わせると『死ぬ死ぬ』って言うヤツほど死なないんだっていうね、話ですけども。

でもなんか『本気でこの人やったんだな』っていうのはよくわかったんですよ。

パロディ世代が抱えたオリジナル問題

(MC)では、ここでメールをもう一つ紹介します。ラジオネーム”ぺんぺんさん”。28歳の男性です。

『テレビでの本放送が終わり、巷で叫ばれ出した頃に夏休みの再放送でみました。第一印象は「なんじゃこりゃ」って感じで。技術の高さや心の描写よりもインパクトの強さばかりが記憶に残っています。アトム以来のアニメにおける進化の一つの完成形をエヴァは示したと思っています。

せっかく示してくれたので、その後は何が起こるんだろうと楽しみに待っていたのに、この10年間で何か起きたとは思えません。竹熊さんはブログでネットアニメの進化を評価していますが、あれだって広い意味でパロディですよね?アニメ業界は今度どうなると思いますか?』

(竹熊健太郎)あのー、パロディっていうのは当時からそうで。ていうか、僕らの世代はパロディ世代だと思うんですよ。

(MC)パロディ世代、うん

(竹熊健太郎)ポストモダンと言ってもいいのだけど。

(宮台真司)うん、そうだねぇ。

(竹熊健太郎)つまり、過去の人たちの作品を作り直していく。これは庵野さんのテーマでもあって。80年代の僕もそうだし、庵野さんもそうなんだけど、基本的にパロディやってたわけですね。昔の子供の頃みた漫画とかアニメのおいしいところをくっ付けて、リミックスして出すっていう仕事をやってきたんですよ。

それでオタク受けがものすごくあったんですよ。オタクにとって気持ちのいいモノを全部使って、今の音楽もそういうところありますよね。

(宮台真司)ありますよね。

(竹熊健太郎)だから逆にオリジナルをやろうと思った時に困っちゃうんですよ。

(宮台真司)うん

(竹熊健太郎)庵野さんが影響を受けたっていうか、弟子みたいなもんなんだけど、二人師匠がいて。一人が宮崎駿、もう一人はガンダムの富野由悠季さん。これがすごい影響を受けてるわけでね。でもあの辺との違いはよく言っててね、庵野さん自身がね。「やっぱり、あの辺の人には敵わないところがある」と。

僕も思うんだけど、宮崎さんや富野さんって表現をすることに疑いを持ってないんすよ。変な言い方かもしれないけど、物を作るってことにね。ところが、僕らの世代だと、何やっても何かのパロディになってしまう。何かの真似になってしまう。

80年代や90年代ってそう言う時代だったと思うんですよ。その中で『オリジナルをやろう』と、庵野さんやったんだよね。そしたらさ、『最後はもう自分を出すしかなかった』ということをおっしゃってますけどね。

だからエヴァンゲリオンのシンジ君にしても『なんで僕はエヴァに乗んなきゃならないんだ』っていうのは、庵野さんは『なんで僕はアニメを作んなきゃなんないんだ』っていうね。心の叫びとシンクロしてるんですよ。そういうふうに見ると、結構わかりやすい作品でもあるんだけど。

(MC)庵野さん自身を描いたって言う…

(竹熊健太郎)だから、私小説って言ってますよ、自分で。オタク受けをするアニメを作ることはある意味得意なんですよ。簡単にできると。どういうものを喜ぶかとかね。ただ自分の訴えたい事を自分を出そうといったときに、訴えたいことがないとか何を出していいのかわかんないっていうね、困難に直面したんだと思うんですよね。エヴァンゲリオンを作るにあたって。

だから富野さんのガンダムとかをすごい研究したんすよ。ほんとにね、ロボットで宇宙で戦うことをね、富野さんは信じて描いてるってふうな言い方をするんだよね。

(宮台真司)多分ね、若い人にとっては分かりにくいことだと思うんだよ。つまりオリジナルをやろうなんて言う人はあまりもういないよね。どっかでやられたことじゃんなんてふうに言われてもね。例えば、オレンジオレンジ問題なんて典型だけど、そんなのさ、どんなに批判されても痛くも痒くもないっていうような人が今、若い世代には大半だと思うんだよね。

でもね、例えば、庵野さん、竹熊さん、僕らの世代はちょっと違うのね。むしろポストモダン世代と言われながらも、つまり『オリジナルなんかない!』という言い方によってある種、断念を迫られている、あるいは断念を引き受けなければいけないふうに覚悟しなきゃいけないくらい、実はオリジナル信仰があるんだよ。

オリジナル信仰があるんだけど見てみると、『オリジナルなんか無理だなぁ』っていう感じで仕事をしているのが僕らの世代の特徴でもあるわけね。

(竹熊健太郎)そうそう

(宮台真司)学問の世界でも全くおんなじなの。だから例えばね、宮崎アニメに色々「あれも似てる、これも似てる」と元ネタ探しってのがある。庵野さんにも勿論元ネタ探しってのはあるんだけど。

(竹熊健太郎)死ぬほどある

(宮台真司)あるよね。庵野さんは全て自覚してるよね。例えば、実相寺昭雄に似てるなとか、電線が色々出てくるとか。あるいは明朝体は市川君に似てるなとかですね。百も承知でやってるのね。そこから先、彼の戦いがやっぱり始まるわけだよ。『だけど、オリジナルだ』と言えるようにするためにはどうしたらいいだろうかということで。

ここはね、実際はどうやって見て頂ければわかると思うのだけど、やっぱレッドゾーン的切実さなんだよね。ある種、狂気を感じさせるような強度なんですよ。

これは多分何度もできることではなくて、竹熊さんがおっしゃったように庵野さんご自身がある状況、つまり、ある種レッドゾーンに近い状況に追い込まれていたが故にできた仕事でね。おそらく人はこういうタイプの仕事は一生に一回できないよね(笑)

(竹熊健太郎)そうそうそうそう。僕がエヴァで感動というか、関心したシーンの一個にね。リツコさんの台詞があって『エヴァは第一使徒のアダムのコピーである』と。その設定はテレビシリーズに出てくるんですよ。第一使徒アダムってのがいて、これを多分ゲンドウがクローンを作って。そのクローンがエヴァンゲリオンだと。

『でも、ただのコピーじゃないわ。人間の魂が入ってるもの』ってね。これって結構、意味深なセリフでつまり、その実際にエヴァって母親の魂を入れたりね。

(宮台真司)そうだねぇ

(竹熊健太郎)エントリープラグを挿入するでしょ?ダミープラグってのは魂のコピーをやって、ダミープラグを作って。ダミープラグを入れないとエヴァって起動しない。それはエヴァンゲリオンの中にはシンジ君の母親の魂が入ってて、だからシンジ君じゃないと乗れないんすよ。

いわゆるシンクロ率が作中に出てくるんだけど、シンクロ率があるパーセンテージから達しないと、エヴァは起動しない。それは肉親だから起動するんですよ。そういう設定が裏にあって、その意味でもあるんですよ。それと同時に作り手の庵野秀明の本音も入ってるんすよ。『エヴァンゲリオンはウルトラマンとか、過去のいろんな作品のコピーの寄せ集めなんだけども、ただのコピーじゃないぞ』と。『これは俺の魂が入ってるんだ』と言いたいんだと思う。

そういう読み方をして僕は結構感動したんですよね。そこのシーンはね。

エヴァンゲリオン以降の展開

(MC)その後、そういうことがあって社会的に影響したんですか?

(宮台真司)うーん、社会的な影響はとてもあるんじゃない?よく巷で言われるのはカタカナで書くセカイって書いて『セカイ系』っていう言い方があるけれども。

(竹熊健太郎)ラノベとかね。

(宮台真司)ラノベだよねー。カタカナ的なセカイ系の走りがエヴァンゲリオンじゃないかっていうことはよく言われることですね。

(竹熊健太郎)よく言われますね。

(宮台真司)ただ、もちろん異論もあって。なぜかっていうと、碇シンジは成長するでしょ。でも、今一般的に言われるラノベって成長しないんだよ(笑)

全部棚ぼた的なモチーフで、セカイ的な使命を帯びた戦闘美少女の振る舞い次第で世界が救われるかどうか決まるんだけど、その戦闘美少女がなぜか僕のことを好きで、僕はその戦闘美少女にどう接するかで世界の命運が決まるみたいなね。そういうふうな話だったりするわけ。

『ちょっと違うじゃないかと、エヴァンゲリオンのほうがマトモだぜ』って議論もあったりするけど。しかし、それは映画まで全体を見ればそうかもしれないけど、テレビ版だけでいうと、微妙なところがあるよね。

シンジ君が成長したのかどうか全然わからないんだもん。

(MC)庵野さんご自身はアニメをやりたいとかやりたくないとかそういう葛藤があった中での作品という事ですか?

(竹熊健太郎)エヴァ作ったあとはしばらくやりたくなかったみたいですね。実写の方に行ったんだけど、エヴァほどいわゆるヒットはしない。プライベートフィルムみたいなモノを何本か作っちゃって。

なかなかね、やっぱり苦労したと思うんですよ。あーいう、自分を出し尽くした仕事を一回やっちゃうとさ。ここにきて、また次の段階に進んだのかなと思いましたけどね。

(MC)なるほど

(竹熊健太郎)あの後、ラブ&ポップっていう村上龍原作の援助交際の女子高生の話を彼は撮るんだけど、実写で。はっきり言ってね、僕はね、当時はね、ガッカリしたんですよ。

(宮台真司)ふふふww

劇場版ラストの解釈(竹熊健太郎)

(竹熊健太郎)今見ると印象違うかもしれないけど、なんでガッカリしたのかというと庵野さんに言っちゃったんだけど。エヴァの劇場版の最後でシンジとアスカだけが取り残されるんですよ。

気がつくのはシンジなんですよ、最初に目が覚めるのは。それで何やるかっていうとアスカの首を締めだすんですよ。

アスカの首を絞めて殺そうとするんだけど、殺しきれずに泣きながら手を緩める。そしたらアスカが気がついて、シンジを見て『気持ち悪い』って言って終わるんですよ。

(宮台真司)ふふふww

(竹熊健太郎)あのエンディングもすごい物議をかもしたんだけど。物語的に解釈するとすれば、やっぱりさ、世界である種、人類が補完しちゃって、マトモな人類はアスカとシンジだけだと。

新世界のアダムとイブみたいに残ったんだけど、ところがその生き残った片割れの女の子をシンジが首を絞めて殺そうとするんだけど、殺しきれない。殺しきれないで手を緩めた途端に女の子から「気持ち悪い」って言われて、そこで幕が閉まるんすよ、劇場の。

(宮台真司)ふふふww

(竹熊健太郎)ものすごい終わり方なんですよ。

(MC)そうですね

(竹熊健太郎)いろんな解釈の余地があると思うんだけどね。僕はね、アレしかないじゃないかなと見事な終わり方だなと当時思ったんですよね。

(MC)納得されたってことですか?

(竹熊健太郎)思ったんですよ。つまりさぁ、保管を拒否したわけでしょ。シンジは。多分アスカも。

保管を拒否して、地球にアスカとシンジだけが取り残された状況になって。それでさぁ、シンジとしてわさ。女の子が横にいるわけですよ、理解できないわけですよ。理解できない存在と二人で残っちゃった。

アスカを殺したらシンジだけになるわけだ。ある意味で完結するんだよ。ただし殺しきれないわけですよ。やっぱり寂しいからさ。アスカを助けるんだけど、その途端に拒絶されるんですよ、女の子から。

これは尋常な終わり方じゃないな思った。でも、分かり合えない異性の女の子とこれから暮らさなきゃならないっていう終わりでもあるんすよ。

(竹熊健太郎)ところが、そのあとラブ&ポップっていう実写映画を撮ると。庵野さんがコギャルの映画を撮ると。援助交際の映画を撮ると。

まだ売れる前の仲間由紀恵さんとかも出てたし、主演は違うんだけど。なんか聞くところによると、撮影前に庵野監督が主役予定のその辺の女の子たちとね、みんな当時コギャルですよ、高校生ぐらいの。

それと遊園地に行ったらしいのね。

一所懸命ね、コミュニケーションを取ろうとしたみたいだよ。つまりね、俺ね、その企画聞いた時にエヴァの次やるんだなと思った。つまり、理解できない女の子っていうモノと、どうコミュニケーションを取るかってさ。庵野監督はやろうとしたのかなと思ったんですよ。

ところがね、庵野さん、逃げたんだよww逃げた…と俺は思ったんだけど。

そういう映画にはなってないんですよ。やっぱり、わからないままなんすよ。コギャルを援助交際で買おうとする大人の男たちをかなりグロテクスに捉えてるね。だから、ある種の現実を反映した作品としてはあれで良かったんだと思うんだけど。

(宮台真司)常識的って意味ですねw

(竹熊健太郎)そのあとは何本か作ってましたけど、やっぱり苦労してるなと思いました。。

(MC)なるほど

(竹熊健太郎)ようやくここで、エヴァンゲリオンに戻ったっていうのはどういうことかな?と。あとでまた話は。

劇場版ラストの解釈(宮台真司)

(MC)はい、あとでまたたっぷりお伺いますけど、宮台さんは映画版のエンディングは?

(宮台真司)夏エヴァの?

先ほど僕、申し上げたようにね、『一体化は良くない』っていうシンジ君にとって終わるのね。

一体化の反対は何かというと、ディスコミュニケーションって話を竹熊さんがしたけど、分かり合えない存在が分かり合えないことに耐えながら生きていくしかない。変な終わり方であったけれど、元々の構想から言うと、辻褄は会っている。そこそこ承認し、そこそこ拒絶しながら適当にやってくしかないんだ。分かりやすくいうと大げさな話、『永遠の生命とか、人類の一体化とか、そういう話はもういいよ』と。『そういうことはもうやめようよ』と。

むしろ、今ここをどう生きるのかっていう事をめぐる、例えば、救済。大きな救済ではなくて小さな救済を求めていくしかないと。逆に言えば、小さな救済がうまくいかないから大きな救済に飛び移っちゃうような短絡が起きると。その短絡の一種がアキバ系、当時はそういう言い方なかったけど、オタクなんだよねみたいな説教も含めてね。

まぁ、簡単に言えば概念的にはそこで完結してます。ただ物語としては、簡単にいうと映画の物語の中でそれを説得できるように展開しているかというと、そうではないよね。

(竹熊健太郎)うん

新劇場版が抱える問題点:エヴァと現代の世相がかつてのようにシンクロしていない

(宮台真司)いろんな要素を組み合わせると、パッケージになってるなって事がわかるぐらいな事なわけ。そういう意味で言えばよ、後から振り返って、12年後から振り返ってみてね。

当時の文脈がドンドン消えていっちゃうと、そのパッケージってわかんなくなっちゃうから、一応自分がエヴァで何をしたかったのかっていうことをね、もう一度、今度は物語の中だけでちゃんと完結できるように作れればいいなっていう風に多分思ってるんじゃないかなって。

(竹熊健太郎)おそらく僕もそう思うんですよ。10年前とは同じことはもうできないですよ。それはやっちゃまずいですよ。

(宮台真司)そうね。ただね、僕が一つ危惧するのはね。さっき言ったように95年って特殊な年だったでしょ。そのあと、じゃあどうなったかっていうとね。僕たちはもう盤石な日常なんて既にないわけよ。2001年911以降、ツインタワーの崩壊の映像を見て以降、アフガン攻撃、イラク戦争、あるいはそのあたりと結びついたテロの恐怖!いろんなものがあった。

日本について言えば、日本だけじゃないんだけど、グローバル化がドンドン進んでね、昔は国家が悪だったのが、いろんな企業が石油企業がなんとか企業が、色んな経済的な利益に基づいて、いろんなモノをぶち壊して。

日本でも色々壊されて、若い人間も退屈な日常どころか、非正規雇用の増大、将来不安。毎日普通に送るだけでも大変になってきちゃったっていうふうにして、なんか盤石な日常なんていう概念がもうないわけね。

加えて、95年ってオウム真理教の事件があった。今でこそ、すごい否定的に捉えられているけど、当時はね、オウムギャルなんて言い方もあった。オウムブームがあったのよ。

(竹熊健太郎)人気があったよね。

(宮台真司)人気があったの。つまり、それこそ永遠の生命とか人類全体の救済なんていう観念が、まだまだ意味を持ってた時代なわけ。今さ、そんなこと言ってるヤツいないでしょ?

(MC)はい

(宮台真司)そりゃあ、言ってるヤツいるかもしれないけど、危ないヤツってことで、隔離されて、隔離部屋に行って終わりね。今むしろ流行りなのはスピリチュアルブームって言われてるように、毎日そこそこ上手くいための、僕はチャネリング的説教って言ってるけど、隣の親父に言われたら反発しちゃうけど、チャネリングを通じて言われたら受け入れられるみたいな、チャネリング説教系ね。

江原裕之さん的なものだよね(笑)

(MC)ふふふw

(宮台真司)当時とは全然文脈が変わっちゃってる。その時に95年のあの異様な時代、状況とシンクロしながらエヴァに神秘性を感じた、そういう条件が今ないでしょ。

でね、僕は試写を3日前、4日前ぐらいか、見に行った時に、何かね、自分とスクリーンの間に紗がかかっちゃってるような気がしたのね。

(竹熊健太郎)あー、うーん

(宮台真司)映像はメチャクチャ綺麗。編集もタイミングを含めて凄く練り直されていて、洗練の度合いは物凄く高まってるので、ダイレクト感がもっと増えてるはずなのに、なんか全体として遠くにあるように見えちゃったのね。

その理由はなぜなのかな?って。多分二つあるのね。

それは6話分を圧縮しちゃったので、おそらく尺が短すぎて余裕を持って、碇シンジ君の内面的な逡巡を追体験できないし。使徒の唐突さについて、謎に思う余裕も与えられないので、なんとなくサラサラサラサラと行っちゃうって事が一つと。

もう一つ大きな条件は見る側が少し変わっちゃっていてね。

(MC)そうですね。時代も違いますし。

(宮台真司)そう。なんか大文字のサルベージについてのね、いくつかのパターンを問題にするとかって言われても、『もう、そんなもの誰も信じてねぇよ』って感じになっちゃてるところが、ちょっと時代が変わっちゃったねっていうね。

(MC)新劇場版については、たっぷりお伺いしますので、ここで一曲お聴き頂きましょう。映画「ラブ&ポップ」の主題歌。

(竹熊健太郎)はははww

(MC)三輪明日美で「あの素晴らしい愛をもう一度」

(宮台真司)主人公だねw

文字起こしここまで。

宮台真司と竹熊健太郎が語る新世紀エヴァンゲリオンPART1|TVシリーズ最終話の終着点+なぜエヴァはヒットしたのか?

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